日本有数の豪雪地帯である秋田県横手市。その南東部に位置する増田は、成瀬川と皆瀬川が合流する地点に立地し、江戸時代以前より人と物資の往来でにぎわった地域です。両沢目で生産された養蚕や葉タバコのほか、様々な物資の流通に伴って増田は県内有数の商業地となっていきました。
現在商店街となっている「中七日町通り」は、明治の中ごろまで「ホタル町」と呼ばれ、内蔵や裏庭など、家の奥にある施設に比べると質素な表構えの町並みであったといわれています。しかし、商業発展のゆえに、明治の中ごろからは細部まで特徴的な正面意匠をもった大型の町屋が立ち並ぶようになり、秋田県内の商業地の中でも大型で特徴的な景観を見せるようになりました。
増田町には現在も、当時の繁栄を今に伝える伝統的な町並みや内蔵が多く残っています。平成25年12月27日には文化的な価値も非常に高いとの評価を受け、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。秋田県では仙北市角館に次ぐ、2番目の選定となります。こうした町並み景観と建築様式や技術を維持しながら保存と活用に向けて進んでいます。
内蔵は、内部に床の間を配した座敷間を有する「座敷蔵」が最も多く、内蔵全体のおよそ65%を占めています。この内蔵が建てられた始まりは、物品を収納するための「文庫蔵」がほとんどだったと推定されますが、増田地区では明治に入ってから、座敷蔵の数が格段に増加し、文庫蔵を座敷蔵に改装した例も多くあります。こうした座敷蔵は、1階の入口を入ると手前に板の間、奥に座敷間を配する2室構成となり、2階は板の間の1部屋構成で、什器類を収納する文庫蔵としての機能を持っています。なお、呼称については居住している方々は、単に「クラ」或いは「ウチグラ」と呼んでおり、確定した名称はありません。ただし、寺社や醸造所等については、代々座敷蔵であっても「文庫蔵」として呼び伝えている例が見られます。
他の土蔵との違いは、そこに生活空間を持つという点であり、用途は多様ですが、多くはその家の当主或いは特定の家族の居室として利用され、冠婚葬祭に利用された例も見られます。こうしたこともあり、内蔵は日常的に不特定多数の人間が立ち入る空間ではなく、家族以外の立ち入りは制限されていました。このため、外から見えない内蔵は、長い間、家長及びその子弟限定の施設として、所在について隣家に知られない場合もあったという、極めて特殊な施設として現在に伝えられてきたのです。しかし逆に、このことが家族にとって特別な空間として、多くの内蔵が今日まで伝えられてくる要因となったのかもしれません。
内蔵を所有する家の多くは商家です。地区の古老は、明治戦前期までは家族も含めて多い時には20人前後もの人々が1軒の家で暮らしており、商店街である通りにはその頃の昼間人口は1,000人を超えていたと証言します。多くの人が入り交じり、家族以外の者も多く住まう家の中で、内蔵だけが唯一当主や家族のためだけに存在する空間であったのかもしれません。
建築年代 主屋 明治~大正期 文庫蔵 明治中期
明治大正期に金物商などを営んだ石田家より横手市に寄贈され、現在「観光物産センター蔵の駅」として伝統的建造物の公開をはじめとする増田町の観光案内所兼物産販売所とて運営
建築年代 主屋 昭和12年 座敷蔵 明治14年
旧石田理吉家は、文政2(1819)年に石田久兵衛家より分家し、戦前まで酒造業(銘柄 金星)を営んでいました。県内でも珍しい木造三階建住宅です。
建築年代 主屋 明治前期 文庫蔵 明治前期
増田特有の細長い敷地に縦長に家屋を配置した姿を現在に伝えており、増田地区最古の店(見世)蔵が現在も現役で使用されています。最大の特徴は、主屋の中にその店蔵が組み込まれているところにあります。
建築年代 主屋 明治20年 座敷蔵 明治11年
江戸後期までは「増の井」の醸造元であった石田久左衛門がこの地で醸造を行っていましたが、秋田に転居したのち初代佐藤三十郎が居住し、この地で五十集商(魚の仲買)をはじめたと伝えられます。
建築年代 主屋 明治前期
宝暦4年(1754)、石田久兵衛が創業し、昭和6年(1931)に株式会社化、平成15年まで営業していました。酒樽を模したモルタルの鏝絵はこの建物のシンボルとなっています。
建築年代 主屋 明治前期
増田地域特有の間口が狭く奥行きが長大な短冊型で、他家と同様に店舗・座敷・住居・水屋・内蔵等が配置されていましたが、内蔵は解体され、店舗と座敷及び居住部が現在も使用されています。
建築年代 主屋 昭和前期 座敷蔵 明治中期
大きな敷地を利用し、明治中期頃の建築と思われる内蔵と、それに繋がる入母屋造り総二階建の接客棟、そして居住棟となる二階建ての家屋と屋根付きの通路が付く外蔵が内蔵の奥に続いています。
建築年代 旧米蔵 明治期 座敷蔵 昭和前期
この座敷蔵は他の座敷蔵とは違い、外蔵の中に座敷が設けられた珍しい形態となっており、入口の掛子塗の土扉が付かない造りとなっています。米蔵は現在カフェとして利用されています。
※予約により、有料で宿泊できる蔵もあります
建築年代 主屋 明治中期 座敷蔵 昭和前期
増田の商家建築の特徴である家屋配置を良く残し、南側に配置された「トオリ」が店舗より裏門まで一直線に伸びています。また、室内は明治大正期の建物に多用され、増田地域の特徴でもある一階の天井が高い造りで、北側となる座敷への採光が取れるように工夫された構造となっています。
建築年代 主屋 明治中期 旧座敷蔵 明治19年
店舗は昭和29年に改修され建築当初の姿を変えてしまっていますが、居住部の小屋組が洋小屋組(トラス)、続く座敷と水屋そして蔵前は天井を張らない吹き抜けとなり、貫工法による和小屋組となっていることから、座敷から蔵前までは明治中期頃に建築された当初(またはその後大正から昭和にかけて)居住部が改修され現在に至っているものと思われます。
建築年代 文庫蔵 大正後期
佐藤こんぶ店は大正期から昆布販売業を営んでいますが、現在の場所で営業を始めたのは戦後のことになります。当家の蔵は、構造、使用の状況からみて、居住空間としてではなく物資の収蔵を目的として作られたものと思われます。内蔵が多く残る増田でもこのような内蔵の類例は無く、建造の経緯について、今後の調査が期待されます。
建築年代 座敷蔵 明治後期
佐藤家は明治以前から地織りの反物を商う太物商でしたが、昭和初期に廃業、先々代当主の三郎氏が医院を開業し昭和58年に閉院するまで半世紀に渡り増田の地域医療に貢献しました。現在は診療所を兼ねた主屋を解体、明治時代後期に建てられた座敷蔵は補修され、新築された家屋の中で現在も活用されています。
※見学にあたっては事前の予約が必要です。
建築年代 主屋 明治時代 文庫蔵 明治41年
現在、増田の唯一の醸造元です。主力ブランドは「まんさくの花」。蔵元でも酒の販売をしており、蔵元だけで販売されている限定酒は見学者に好評となっています。
文庫蔵は、増田の数多い内蔵の中において、その意匠や豪華で繊細な装飾がひと際際立った内蔵となっています。
建築年代 座敷蔵 大正10年 旧米蔵 大正後期
増田の大地主であった小泉五兵衛の旧宅です。小泉家は材木や味噌・醤油を商っていました。江戸時代より8代続き、戊辰戦争においては350両という増田一の御用金を納めています。現在は稲庭うどん店に併設する資料館として利用されています。
戦前は、屋号「栄助」を名乗り、炭や荒物を販売した商家でした。内蔵は明治から大正期に店繁栄の象徴として、隣近所競って建てられたと言われています。現在は「升川商店」が所有し、和装雑貨店を経営しております。
建築年代 明治後期
江戸時代中頃、伊勢国より増田に移住し薬舗を開業。十一代まで続いた増田最古の薬舗でした。明治後期に現在の場所に居を構えました。
建築年代 座敷蔵 明治二年(1869年)
東海林家は戦国時代の増田城主・土肥家の家老職を務めた旧家。十二、十三代重太郎氏は、秋田県議会議員として県政に貢献しました。
明治十八年(1885年)には書店を開業し、多くの教科書類を発行しました。
建築年代 座敷蔵 大正九年(1920年)
米穀商を営んでいた五十嵐養吉家が築し、「五養」の蔵と言われました。現当主は昭和二十四年(1949)からここに住まいし、茶舗を経営しております。
建築年代 主屋 明治後期~大正期 座敷蔵 明治12年
佐藤與五兵衛家は代々の地主で増田銀行設立時の監査役の一人です。
大正期に増田勧業社を設立し、セメントなどの建設資材を扱う商いを
していました。現在は、まちの駅福蔵で公開しています。